長い間思い悩んでいた疑問の一つが、今日とうとう氷解しました。
まあ、少し前あたりからそれとなく理解しつつあったのですが…。
それはなにかといいますと、「なんで法華経が大事なの?」という疑問でして…。
日本の仏教史を「かなり粗く」みていくと、最澄以来、法華経っていうのが日本の仏教史のなかでかなり大きな地位を占めているようですよね…。
法華経を重視する日蓮宗なんて、その最たるものですしね、他の宗派も天台宗の教義の影響を受けている分、なんらかの形で「法華経」にかかわっている気がして…。
また霞お得意の「勘違い」…ですかね…?そうならいいんですけど…。
霞は仏教史は日本のことしか勉強(それもちょっとやってみるか的にはじめたばっかり…、あんまりつっこんだことはしていない)してないので、いままで気がつかなかったらしいのですが、どうやら、法華経のことを考えるためには、日本の仏教史だけに目を奪われていたらいけないらしい…ということがわかりまして…。
法華経のことについて調べるには、どうやら中国の、天台(法華)宗の宗祖智顗にまでさかのぼらないといけないようです。
そこで、智顗についてちょっと調べてみたわけです。そしたら一発でわかりましたよ~。いや~やっぱり視野を広く持たないといけませんね~。
古代中国で、仏教がある程度普及してくると、伝えられた経典の多さから仏教の教えがあまりにも多様化してしまい、どれが真実の釈迦の教えかということが問題になりました。
そこで、経典の内容が種々異なるのは、釈迦が教えを説いた時期や内容が異なるためという考えが流行しました。
このような流れの中で、既存の経典を分類し、その中でどれが最高の教えであるかを明らかにしようという動きが盛んになっていきます。
このような動きを教相判釈(きょうそうはんしゃく)といいます。
天台智顗が出家した当時、まさに世の仏教の流れはこういう方向に流れていました。
そこで、若き日の智顗も、このような判釈を行うようになるのです。
彼は、最初に釈尊が悟りを得てすぐに。華厳経を説いたが、その教えは他の人が理解するには難く、理解できる人がいなかったと考えました。そこで、次に釈尊がより平易な阿含経を説いたと考えました。
その後、釈尊が、人々の理解の割合に応じて方等経、般若経が説き、最後の8年間で法華教と涅槃経を説いたのである、という風に考えました。
また、智顗は、涅槃経に対しては、法華経とほぼ同内容であり、その真理は既に法華経で明かしており、法華の救いに漏れた者達のために説かれた教えにすぎない、という位置づけをしました。そのため、涅槃経を法華経と同じ釈尊の哲学の最終形態としてとらえ、法華経を最高の真理を説いた経典として重視するに至ったのです。
このような考え方を完成させたのち、智顗は、「天台法華宗」を開きます。
その後、唐で天台宗を勉強した最澄によって、五時八教の考え方が日本にももたらされることになるのです。そして、比叡山を中心として研究されるようになるのです。
ただ、比叡山においては、あくまで、「法華経」を最高の経典ととらえつつも、他の経典の研究も行われていました。
そのような下地があったからこそ、後に比叡山からさまざまな宗派が生まれることになるのです。
ところが、日蓮上人が顕れると、彼は、「法華経」こそを真実の経典とし、それ以外の経典を徹底的に否定するようになったのです。(これが「折伏(しゃくふく)」といわれ、後の時代まで、日蓮系の宗派が批判される要因のひとつになります。)
こうして、法華経が、日本の仏教文化のひとつの大きな影響を与えることになるのです。
あたしが、はじめて、五時八経の考えに触れたのは、内村鑑三の著した『代表的日本人』の日蓮のことについて紹介している文章を読んでいたときです。ただそのときは、具体的な出典が不明だったので、しばらく放置していました。ところが最近になって、ちょっと中国の仏教について調べてみたときに今回のような収穫があったわけです。
何度も言うようですが、やっぱり視野は広くもたなあかんね~…^^;
きっと、仏教を専門に勉強されてきた方には“あたりまえ”のことなんでしょうけど、霞は、こんな“あたりまえ”なことに気がつくのにも時間がかかるんです… ごめんなさい…;;
それにしても、今日はちょっとしたアハ体験をしてしまいました~^^。
今夜のお酒もおいしく頂けそうです。-人- 合掌